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装甲列車用に一括移送されるS35戦車
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バルバロッサ作戦の後方を支えた影の功労者
1941年6月、バルバロッサ作戦の開始によって枢軸同盟軍が怒涛の勢いでソ連領内になだれ込んだ際、はじめに出くわした障害は兵站の問題でした。
ソ連の鉄道は欧州よりも幅の広いものを採用していたので、独軍の手持ちの装甲列車でここを走れるものはありませんでした。そんな中、唯一ソ連の鉄道に入線が可能だったのが、広軌車輪に改造された第 26〜31 装甲列車のシリーズでした。
これらのシリーズは当初、装甲側板と天幕張の無蓋車にフランスからの鹵獲品であるソミュアS35 戦車を持つのみの簡易な編成でしたが、前線の後方をサポートする唯一の部隊として、この装甲列車シリーズがバルバロッサ作戦初期に果した役割は大きなものがありました。 1942年春〜夏にかけて、枢軸軍の占領地の路線の大半が標準軌に改軌されていったのに合わせて、第 26〜31 装甲列車も再び標準軌の車輪に戻されました。加えて、鹵獲したソ連製の装甲車両などを組み込みながら漸次攻撃型の装甲列車へと編成も強化されていったのです。 第 26〜31 装甲列車は終始東部戦線にあり、前線の部隊をバックアップし続けてきました。そして何度も損害を被りながらも、補充・改編を受けて多くの列車が大戦後半まで生き延びたのです。第 26〜31 装甲列車こそ、最も東部戦線に貢献した装甲列車部隊であったと言えるでしょう。 |




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第26〜31装甲列車が初期に装備していた戦車運搬車は、簡単な構造ながらよく出来ていた車両でした。 ランプウェイ部は、普段は前哨車の平荷台上に吊り掛けられています。 ランプウェイを吊るワイヤーは一端が戦車に固定されており、前哨車を切り離した後に、戦車を前進させることによってランプウェイを速やかに降ろし、 搭載している戦車を迅速に出動させることができました(収容時は逆の手順)。第26〜31装甲列車によって有効性が実証された戦車運搬車は、後のBP42/44 規格の新型装甲列車にも引き継がれました。 |
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【Memo ブロード・ゲージ(広軌)】 帝政ロシア時代から現在の共和国ロシアに至るまで、旧ソ連邦の鉄道はブロード・ゲージ(広軌)を採用しています。ブロード・ゲージというのは、欧米をはじめ世界各国で採用されている国際的な標準軌である 4ft-8.5in (1435mm) に対して、それよりも広い軌道についての総称です。 インドの 5ft-6in (1676mm)、スペインのカステラン・フィート尺による 5ft-6in (1668mm)、オーストラリアの 5ft-3in (1600mm) 等が有名ですが、ソ連では 5ft (1524mm) を採用していました。 帝政ロシアはかつてナポレオン軍によって手痛い損害を被った経験から、鉄道を建設する際に外国軍の侵攻が困難となるように欧州の鉄道とは異なるサイズのゲージをあえて採用したと言われています。 バルバロッサ作戦が開始され、枢軸軍がソ連領内になだれ込んでいった際にもはじめに出くわした障害がこのゲージの違いによる問題でした。 枢軸側もこの点については事前に考慮してはいたのですが、当初の進撃速度があまりにも速かったため、占領地の鉄道の改軌がそれに追いつかなかったのです。 この為、1942年の春あたりまでは戦線の後方で行動できる装甲列車は、広軌車輪を持った第 26〜31 装甲列車くらいしかありませんでした(もちろん、捕獲した敵の装甲列車等は利用していましたが)。 その後、占領地域の路線の大半は標準軌に改軌されましたが、この際に第 26〜31 装甲列車も標準軌に戻されました。1942年の夏から南部方面への進撃作戦『青』作戦が開始されましたが、また再び進撃速度が速かったために改軌が間に合わず、 『青』作戦によって得た占領地の路線をサポートする装甲列車はなくなってしまいました。この年の冬に迎えることになるスターリングラードの悲劇の背景には、こうした兵站遂行への障害が潜在していたと言えるでしょう。 障害は改軌の問題だけではありませんでした。ソ連のゲージは幅こそ広いものの、欧州の鉄道線路と比較してたいへん脆弱でした。枕木のスパンが長く、また質の悪い鉄で作られた線路は重い車両が通ると割れてしまうこともしばしばでした。 枢軸軍は占領地での鉄道輸送を、敵の捕獲した貨車によって速やかに代行する計画を立てていましたが、車両を確保できてもこのような脆弱な線路のせいで欧州のような重量貨物列車を運用することができず、列車の分割・荷物の積み換え等のムダな作業によって輸送効率はたちまち悪化してしまったのです。 加えて、あちこちで頻発するパルチザンによる鉄道サボタージュがこれに拍車をかけました。 更に、ソ連の鉄道設備(線路の配線システムや荷役設備等)の問題がありました。枢軸軍の補給の仕組みは、戦線後方に設営された兵站組織からレベルに応じた補給を受けるようになっていましたが、この兵站組織はいかにもドイツ的な『凝った』ものであり、 幾重にも階層化された分割・中継の動きは、鉄道の端末駅と有機的に結合してはたらくことを前提としていました。しかしながらソ連の鉄道設備はきわめて簡素で単純なもので、こうした枢軸軍の補給システムの運用には全く合致していませんでした。 ソ連軍の補給は基本的に『産地直送方式』であり、前線のすぐ後方まで物資を運んでゆく貨物列車自体が補給基地の役割を果すというものでした。 この単純かつ合理的な補給方式こそが、大戦後半のソ連軍の快進撃を支えたのです。 結局、枢軸軍の侵攻を最終的に阻んだもはソ連の鉄道だったと言えるのではないでしょうか。そう考えると、ブロード・ゲージといい、脆弱な線路や粗末な鉄道設備といい、結果的にせよ意味のあるものであったのかも知れません。それはまるで、かつて帝政ロシア時代にナポレオン軍を阻んだ最大の敵が泥道であったことを彷彿させます。 常勝ドイツを打ち負かしたものは一条の鉄路だった、まさに『歴史は繰り返す』というわけです。 |

